今日は、真備支部の方と行動しました。
先日、造成工事が始まっている特別支援学校予定地から西の方向の位置する猿掛城址の風景を載せました。
この風景は、小田川の堤防から東方向を望んだものです。
右の山が古戦場福山です。左に稜線を下ると中央部分の平たいところが中世の幸山城跡です。
1336年の福山合戦では、新田義貞が福山城に、それを攻める足利勢、勝利した足利氏は、その後、光明天皇をたて、後醍醐天皇は吉野に、南北朝の始まりとあります。
幸山城の城主は、石川氏。いわゆる備中兵乱、毛利と三村の戦いで、義兄の三村元親に組みするが、追いつめられ幸山城で自刃、(天正3年、1575年)その後、一時期、清水宗治(1582年?秀吉の水攻めで自刃)の居城、その後廃城とあります。
幸山城から見下ろす総社平野の北側には、古代の朝鮮式山城の鬼ノ城があります。
この地の古代、中世の城跡群は、街道を見下ろし、目視の範囲内で連なっています。
幸山城から西にまっすぐ猿掛城、そのまた西にと。
今日の空は快晴です。福山合戦の日も、天正3年に自刃したその日も、空は、今日より、もっと青かった、そんな空を想像しています。
まだ、その時代は海が近く、井原線が通る一帯が山陽の主要な道であった証ですね。
産業構造の変化から、内陸部が見直される時期が来るかもしれません。
投稿情報: 名無し | 2012/01/30 21:46
大変うれしく思いながら読ませて
いただきました。年の離れた夫は
「浮世をば今こそ渡る武士の名を
高松の苔に残して」水攻めの地を幾度も尋ね、福山城での戦いの
責任を取って切腹した辺りとか
鬼の城は最初から何回も、
死してもラッパを離さなかった人のことや山中鹿之助など
今ここにいたらどんなに喜んで読ませていただいたことでしょう。
心から感謝です。
真備町の寺の奥様から昔足利尊氏に寺を焼かれてしまって・・・
とか国分寺の塔の解体修理の折
瓦に名前を書いて寄付させていただいていますので娘があの辺りが好きでドライブといえばそこで
「お父さんがあの塔の屋根にいるよ」と話します。
歴史は
知らないが私達には何故か心にしみる風景です。
お忙しいのに本当にありがとうございました。
合掌
投稿情報: 鯉にょうぼ | 2012/01/31 00:11
吉備は古くからの政治の舞台なのですね。
ちょうど、友人が人間性の観点から宗教について書いたので、関連として、松本清張の遺稿(未完成。『神々の乱心』)関係の文献を読んでいました。『松本清張研究』第11号、です。
その号に、小森陽一氏が面白いことを論考していて、いろいろ教えられます。”「天皇制」の歴史的深層へ ―『神々の乱心を読む』―”です。
平和委員会の知人が、「天皇のために死ぬ」と思いつめて育っていたから、「新憲法になってもなかなかそれになじめなかった」と聞き、考えさせられました。どうしてそこから抜けたかといえば、「書物を学ぶことなどで」とのことで、それまた考えさせられました。
彼の少年時代は特別ではないと思われます。でも、そこから、事実を見るようになるには、誰でもそうできるとは限らぬと思えて・・・。
投稿情報: 白井浩子 | 2012/01/31 04:18