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その中に、山中鹿之助の名前が出ていました。冑の飾り?に三日月を着けた「七難八苦をと、三日月に祈る」山中鹿之助です。備中松山城に護送される中、高梁川と成羽川が合流する落合の阿井の渡しで謀殺されます。
1578年のことで、この死をもって、尼子再興の企ては完全に絶たれることになります。この付近に鹿之助の墓もあります。
実は、私は、その昔?尼子十騎の一騎と言われた神西氏を追っていたことがあります。
1578年、毛利に敗れ、尼子勝久や神西元通が自刃、山中鹿之助が捉えられた上月城の戦いがあった上月城址(当時は播州上月の地)、鳥取県広瀬町の月山富田城址、出雲大社西の神西城址を駆けめぐっていました。
上月城の戦いで、尼子勝久を救えなかった羽柴秀吉は、後の1582年の水攻めでの高松城主の清水宗治の自刃を求めたとあります。上月城の戦いに勝利した毛利氏が、尼子勝久や神西氏の切腹を認めなければ、清水宗治の切腹も無かったかも知れません。
板東武者であった毛利氏も神西氏も鎌倉幕府から地頭として、平家の滅亡後、西の地に配置されたものです。警察権をもった地頭が荘園を奪取してゆき、鎌倉幕府の強化が図られてゆきます。
地頭たちが、やがて下克上を通じて毛利氏のように大大名に成長してゆきます。毛利氏は、関東の毛利の荘から広島の三次、吉田の地へ地頭として入部したとあります。
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