木いちご
いま、23日のM新聞の切り抜きを読んでいます。伊東陣営が市長選挙勝利の万歳を叫んでいる写真の横に「視点」と題する記事が掲載されています。そこには、『支持者(伊東陣営)から「選挙をやる意味があるのか」の声が漏れたが、私(記者)はあったと考える』とあります。
この「選挙をやる意味があるのか」の支持者の声、こうした声を扇動したのは伊東市長自身ではなかったのかと思い出しています。
選挙前、伊東市長は、真備町での後援会の決起集会で「私たちの倉敷市をつくる会から候補者が出るので選挙費用一億円を使うことになる」という主旨の言が伝えられていることです。この言辞は「選挙で托されたイスをいつまでも自分の指定席と考える傲慢な思い上がり」と批判されたことです。
こうした伊東市長の言辞が「選挙を「やる意味があるのか」に連動したのでしょう。
さらに、この記事には、伊東市長の有力支持者の中に「効果を見込めない鉄道高架だけは再考を」と話す人もいるとあります。
こうした新聞記事のように、この選挙での論戦は、倉敷市の現状や問題点を市民に明確にするもので多いに意義のある選挙でした。この論戦は、多くの市民の中で反芻されてゆきます。
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