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2012/09/07

コメント

名無し

質問通告をしてもらって、三十分の時間制限でお願いできないのでしょうか(笑)

鯉にょうぼ

浸透破提について土手の砂層が水を含んでもたなくなって鉄砲水のように噴出し同時に上の部分が
飛ぶように崩れ堤防決壊となるのだそうですが全国河川の中に高梁川が入っていました。
地図上で河川のどの辺りなのかマークしておきたいのですが
そこまでは調査できてないでしょうね。
大きな河川の恵みで暮らした事がないので
大げさかもしれないけど知っておきたいのですが。

名無し

> そこまでは調査できてないでしょうね。

破堤の想定は、それを考慮に入れたもののはずです。
船穂町側でなく、西阿知側です。
大正時代末頃までは、高梁川が酒津の南辺りで分岐していましたから、昔の川の流域だったところには、砂礫層がになっている筈です。
堤防の下もそうでしょう。

鯉にょうぼ

早速の書き込み有難うございます。地名に
津が付いていますからあの辺りまではと思っていました。
今日も娘がドライブに連れて行ったくれましたが
自分の行きたい所、それは私の行きたい所ですが吉備路、高梁川の
堤防本当にきれいです。
知人の歴史学者、彼曰く歴史研究と結婚した、といまだ独身(70近くで東京在住)その彼が
初めて高梁川を走って
きれいだあ~~~と唸っていました、これほど自然が残っているとはと岡山旭川でなく吉井川でなく高梁川を素晴らしいと絶賛していました。
私が案内したのでなく勝手に日本中を走り回ってちょいと寄って
帰ります。
そんな高梁川をしみじみ眺めてきました。
ここの人は当たり前と思っているかもしれませんが私はそれに惚れてきました。
はじめ頃は用水にゴミを捨てるのを見て高校生くらいまでは
叱っていました。ゴメンねおばさんはため池の水で育ったから
この流れが愛しいの捨てないでねって。今夜もどうでもいい事を
長々とすみません。
おやすみなさい。

参考

「中世〜近世(古地分岐)」
「東流は、現在の総社市清音黒田から倉敷市酒津あたりまでは現在の流路とほぼ同じ位置を流れ、酒津以南はそのまま南へほぼ直進して流れた。」

「近世〜現代(酒津分岐)

東高梁川廃川地に掘削された八間川用水(倉敷市)

現在の倉敷平野部では、高梁川の洪水に幾度も悩まされたため、度々河川の改修・治水工事が行われた。その後、1907年(明治40年)から始まった改修で東西の分岐点が、古地から現在の倉敷市酒津で東西に分岐するように変更され、東高梁川(東松山川)、西高梁川(西松山川)となった。旧分岐点から新しい西流(西高梁川)までの流路は柳井原貯水池となり現在に至る。[2]

さらにその後の改修により、酒津分岐の東高梁川は廃川となり、1925年(大正14年)に明治期から続いた大改修工事は完成し、西高梁川が本流となり、現在に至っている。旧河口部には水島市街地、旧堤防には水島臨海鉄道水島本線や八間川用水などが造成された。[2]」

高梁川 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A2%81%E5%B7%9D#.E4.B8.AD.E4.B8.96.E3.80.9C.E8.BF.91.E4.B8.96.EF.BC.88.E5.8F.A4.E5.9C.B0.E5.88.86.E5.B2.90.EF.BC.89

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